ェイスの避難経路 I-B  大聖堂周辺 コレイオ古坂

 ムーア人に築かれた市壁を素地とするコレイオ古坂。写真右手の付近には名高い市門ポルタ・ド・フェロが位置し、キリスト騎士団聖母受胎教会の敷地に当時組み込まれていた。(GS)

 「 フォルグさんは身内のひとりを呼び寄せ、私を階上に運び椅子に座らせました。そして、飲物を提供させ、ベッドをいち速く用意させて、できるだけ体が楽になるよう、私をそこに横臥させてくれたのです。彼が立ち去ってまもなく、新たな震動のため私は左手で目を塞ぎ、度重なる惨事から早く永遠に解放されるよう祈りました」
「数名の知己が死亡したことを知らされたとき、運命において彼らは私より幸せであると羨みます。また、市内で三つの火災が発生したと聞きましたが、その時点ではまだ警戒するに至りません。ベッドに横わる私は、王都の広範な地域を眺め、火の手のひとつが、その一角に昇るのを見ました。」
  (トマス・チェイス 前掲書)
初出 2013/06/08

改編 2013/06/25
       図   録 
  貿易商トマス・チェイスの被災証言と避難経路

       


  11月1日午後
 全身に重傷を受けたチェイスは、ペドラス・ネグラス街の沿道へ自力で脱出し、まもなく意識を失ってコレイオ古坂との三叉路で倒れる。幸運にも古坂近くのドイツ人に介護され、しばらく彼の邸宅へ身を寄せ、応急の手当を受けた。王都低地帯には津波が押し寄せ、数カ所で火災も発生した。

    
 
  
  
   

 
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[ チェイスの避難経路 II へ続く ]

 アルファマ丘陵ペドラス・ネグラス街。複雑な構造の集合住宅に、チェイスの父など
在留外国人が多数居住する。大地震の数年前ある貴族の創意で発掘が行われ、この敷地が
古代ローマの神殿跡と確証された。

「午後 11時頃に従僕ふたり来たあと、すぐにフォルグさんも部屋に入り、いまこそ移動するときと宣言しました。落ち着きはらって、自分の帽子と上衣を取りに行き、私のため頭巾と掛け布団を携えて、外へ出るから寒くなると言います。」
「瓦礫のない唯一の進路が狭い坂道で、そこでは哀れな被災者が物乞いするのを耳にしました。掛布団を被せ、座椅子のひとつに乗せて私を従僕ふたりが運搬しました。もうひとりの男が灯火を持って前を歩きます。フォルグさんの住居を出てまだ遠く行かぬうちに、キリスト騎士団受胎教会が小路の奥にあり開かれた扉から点火された蝋燭が上部の祭壇に見えます。聖職者の衣服を纏う修道士が一心不乱に勤行を努め、門口に数個の遺体が横わっていました。」
 「サンタ・マリア・マグダレーヌ教会も破壊を免れたらしく、戸が開かれ、なかに灯明と人影が見えます。火の手が大聖堂への参道にまで拡がったことに私は気づきました。ドス・オウリブス・ダ・プラータ街(銀細工師通り)では全壊の建物はないとはいえ、必死になって窓から包みを投げる幾人かに出会います。ノヴァ・ドス・フェロス街(鉄格子新街)の入口にさしかかると、路の両側に火が移り、それと平行に伸びる次の路でも同様でした。」
    (トマス・チェイス 前掲書)

    LISBON EARTHQUAKE リスボン大地震 1755年 
 

ェイスの避難経路 その4  リベイラ王宮前

  11月1日深更
 やがて火の手は大聖堂周辺にも迫り、フォルグの配慮によって、王宮広場への避難が決行される。歩行困難なチェイスはふたりの従僕に担がれ、深夜バイシャ東南部を横断した。商易の中心をなす新街界隈では、倒壊を免れた家並も燃え始め、住民の狂奔を目撃する。

 
 
 
 

  ェイスの避難経路 I-A 大聖堂周辺 パドラス・ネグラス街

HOMEPAGE TOP 永冶日出雄
 論文:貿易商トマス・チェイスの震災記録pdf
 
 
 
 
 
 

 1755年11月1日午前
 イギリス人貿易商トマス・チェイスはアルファマ丘陵大聖堂西のペドラス・ネグラス街で
1755年万聖節の朝大地震に襲われた。半世紀後に公開された彼の母親宛書簡は、もっとも
長文で綿密な個人の被災記録とされる。

 イギリスの画家ロバート・バティ(1789-1848)による復元画、ペルリンホ広場。15世紀リスボン河港の開発に伴って、職人と商人を主体とする新街が形成され、その中心地となった。華やかな鉄格子新街、銀細工師通り、菓子屋通りへの入口でもあるが、奴隷売買の定期市もこの広場で行われた。
 震災後の抜本的な都市改造によって新街界隈の古い街並と広場はすべて消え去った。

Susanna Van Ros, Earthquake, London, 1983

  リスボンの守護聖人に因むサント・アントニオ教会。小さな広場を隔てて向側にコレイア古坂が横切る。教会左手はペドラス・ネグラス街南側の建物で、チェイスの生家はこの一角と思われる。(GS)

 Hans Reichardt, Prirodni katastrofy, Prague, 1994          Susanna Van Ros, Earthquake, London, 1983
   リスボン市中の細部を描いた被災図は僅少であるが、災害に関する現代の学術誌に掲載された想像図ふたつ。

 アルファマの高みからバイシャ南部、リベイラ王宮、大河テージョのを眺望する。
地震、津波、大火によって壊滅した地域である。

 丘陵の登り口にあるサンタ・マグダレーナ教会。
13世紀に創建され、アルファマ南西部とバイシャ
南東部を教区とする。(GS)

 ペデガシェ素描、ルバ版画「リスボン荒墟の偉観 大聖堂」。
大地震の代表的絵図のひとつであるが、描かれたのは被災から
多少時日を経た情景と思われる。

 「 1755年11月1日土曜日、ちょうど26歳に達した当日、生家である4階の居室で9時45分頃、ひとり私は机に向っていました。そのとき大地が揺れ動くのを感じ、すぐに地震と悟りました。」「すぐさま階段を降りた私は、想像を絶する怖ろしい光景を目のあたりにします。家屋が隆起し始め、抛り出されないため、懸命に片腕を窓辺に掛け、壁で身を支えました。周りの壁はどの石材が割れて相互に砕き合い、他の家々の外壁も前後左右に揺れて、世にも凄まじい轟音を発します。ゴダールさんの居室を支える外壁まず崩れ落ち、ついで上方の各階、さらには建物全体が倒壊しました。城砦まで見渡すかぎり、すべての建物が倒れています。」
(トマス・チェイス1755年12月31日付母親宛書簡)
ェイスの避難経路 I-C  バイシャ南東部 新街界隈
 16世紀のノヴァ・ドス・フェロス新街(鉄格子新街)。アルフレド・ロケ・ガメイロ(1864-1935)の画集『ポルトガルによるブラジル植民地化の史話』に含まれる復元図である。繁華な新街界隈の主要な市街として、とくに植民地ブラジルの獲得により殷賑を極めた。


被災地図(大聖堂周辺)出典Pereira de Sousa,
O terremoto do 1 Novembro 1755. Lisboa, 1932.

        チェイスの避難経路 I  
 @ ペドラス・ネグラス街  貿易商チェイスの生家
 
 A ペドラス・ネグラス街   ドイツ人フォルグの邸宅  
 B コレイオ古坂  キリスト騎士団聖母受胎教会  
 C サンタ・マグダレーナ教会  
 A リスボン大聖堂  
 B サント・アントニオ教会
 
 C サン・ジョルジェ城  

 リスボン市街図 Forway 2012 
囲み数字と英大字は筆者による書き込み
   (以下の地図も同様)

 大聖堂(サンタ・マリア大寺院)は震災後数次に
わたって修復され、焼失した総大司教教会から
リスボン総大司教座もここに戻された。

 リスボン大聖堂:イスラム勢力から400年ぶりにリスボンを
奪還した国王アルフォンソ1世は、1147年万聖節に5人の聖職者
とともにこの地を祓い清め、大聖堂建立を誓約した。