リスボン大地震通覧目次

 モレイラ・デ・メンドンサ著 『世界地震通史』 はみずから震災を体験した史家によって書かれ、リスボン大地震に関する史料の筆頭に挙げられる。この古典的な著作は簡潔で的確な記述だけでなく、民衆の艱苦と市街の惨状、さらには罹災者の救済と震災への緊急政策など、多面的な記録として現代の研究者から高く評価されている。とはいえ、時間と空間を遠く隔てた私たちには、 『世界地震通史』の真価を充分に把握できない懸念がある。幸いにも当時のポルトガルについては多くの図像や地図が遺され、これらとの照合がより透徹した認識へ導く一助となろう。
 ここに記載する論述は同書のいわば第2部、リスボン大地震に関する第472項から第597項までの試訳である。

第482項】
 家屋を喪失した人たちが多数テージョの河畔へ逃れ、震えながら荒墟を仰いでいた。 突如そこへ怒濤をなして海嘯が押し寄せ、リスボンのみならず、2レガ離れたリオ河口の都市まで被害を及ぼした。*
海流は従来の限界を超えて多数の建物を水没させ、サン・パウロ地区に氾濫したのである。どの水辺でも高潮は激しさを増し、新たな危険が王都と近郊に拡がって、全土が海に呑まれるとの噂が飛び交った。 
  (訳註*)ポルトガルの1レガは5572メートルに あたる。

【第479項】
 こうした怖るべき騒擾のなかで愛だけが滅びなかった。父母は子から引き離され、子は生みの親を見失う。 恋人たちはたがいに探し求めた。なにびとも財貨を頼りにできず、生き残るため神の救済だけを求めた。
 【第480項】
  多くの死者を調べたが、禍因はさまざまであった。ある人は安全な家屋から脱出し、かえって他家の障壁の下に生き埋めとなった。ほかの人は目を天に向け、跪拝したまま石材の崩れで絶命した。こなたでは救われた母親が死せる子を抱き、かなたでは息絶えた母親に抱かれる子が救助された。落下する石から子どもを両腕で護った人もある。カルメル会修道士と思われる人物が進退極まる高窓に残され、遠方にいる聖職者に赦免を願って、火焔で焼かれるまで律儀に待機した。これこそ神が下された畏怖すべき審判の顛末である。
【第481項】
 障壁の大きな形骸の下で煉瓦を集め、坑道を造って脱出した修道女もいる。身に帯びた衣服が瓦礫に絡まり、身ひとつで抜け出した者もいる。奇蹟的なまでに俊敏な対応である。寝たきりの患者や瓦礫による重傷者をも含め、いかに多くの人々が医者も医薬もなしに数日で気力を取り戻したことか。これらこそ神慮による奇蹟にほかならぬ。
地震の衝撃による悲劇的惨状 (18世紀後半の制作と思われる)
Cena dramatiqua do impacte do terramoto, sec XVIII ? (Museu da Cidade Lisboa)
【第474項】
 こうした大地の揺れによって海水が背進し、岸辺では初めて見る海底も露出した。また、海嘯が屹立した丘陵をも洗い、尽きざる震動が沿岸のあらゆる民族へ影響を及ぼした。氾濫は大きなもの三度、小さなもの数度にわたり、多数の建物と水辺の多くの住民を破滅させた。
【第475項】
 さまざまな情景が悲痛な記憶を私に甦えさせる。多くの悲惨な事実が念頭に浮かび、それらの膨大さ、多様さ、深刻さは仔細に語るのを私に躊躇させる。だが、災厄の一端を話すだけでも、巨大な全貌を知る手掛かりになるかもしれない。
  ルイス・カモンエス著 『ウズ・ルジアダス』
  Luiz de Camoes, Os Lusiadas, Lisboa, 1572.
               第4歌第84連
 名高きウリセスの港、そこにて甘美なティージョ、
淡水と白砂を辛い海水に融かし、高貴な熱狂と大望
をもってすでに船用意されたり。 若者の熱望に
いかなる恐怖の影もなし。航海と戦争の勇者、世の
果てまで我らに付き添うこと、その所以なり。
               第4歌第88連
 その日都の民馳せ参ぜり。あるもの友人のため、
他のもの身内のため、さらにはただ見送りのため、
名残り惜しさ、面に浮べて。千人もの敬虔な修道士
荘厳な隊列にて従い、神の祝福を祈りつつ、我ら
艀け目差して厳粛に行進せり。
 

       図説 リスボン大地震通覧 I 
  モレイラ・デ・メンドンサ著『世界地震通史』と往事ポルトガルの絵図
      
 

ガメイロに描写されたリスボン河畔平素の情景 〈左〉王宮河港の船頭たち  Junto ao Cais das Colunas no Terreiro do Poco
〈右〉ソドレ埠頭 貧しき一家  Restos de praira junto ao Cais do Sodre 『画集・リスボン懐古』 Gameiro, Lisboa Velha. Lisboa, 1925

 チェコ語の題字「地震によって4万人が10分間で生き埋めになり、絶命した。」
  Imaginary depiction of the inhabitant's reponse, 19th C. Bohemia (KOZAK)

 殷賑を極める王都リスボン、あらゆる階層を呼び寄せるアレグリア広場定期市
  A Praca da Alegria por Nicolas Delarrive, Lisboa (Museu Nacional de Arte Antiga)

  『世界地図1755年』(地理学者J. B. ノラン制作)
    Mappe monde, par J. B. Nolin, Paris, 1755.

1497年ヴァスコ・ダ・ガマは4艘の艦隊を率いて、
リスボン港からインドへ出発した。この壮途はカモンエス
の民族的叙事詩において歌われ、幾多の絵画にも描かれた。

  ヨーロッパでは現代でも
 万聖節が聖人と祖先を偲ぶ
 貴重な祭日である。

  ヴァシリイ・カンデンスキー画
       万聖節
  Wassily Kandinsky, Toussamt

6/通覧 I
4/通覧 I
 【第473項】
 11月1日、月暦28日、大気は静穏で、雲はなく快晴。10月から温暖な数日が続き、秋としては多少暑さを感じた。気圧計27インチ7ライン、レオミュール温度計14グラオ、北東の微風。午前9時半をすこし過ぎた頃、大地が揺れ始めた。(*)その震動は地底から地面へ突き上げ、衝撃を増しながら、北から南へ揺さぶるように続いた。これに伴って建物の被害が生じ、数分のうちに倒壊と壊滅が始まり、大地の激烈な震動とその持続に人々は抵抗できなかった。第二の震動は一層規則的に7分か8分続き、短い中断を挟んで二度の地震が起った。あたかも遠くで雷が鳴るときのように、地下の雷鳴ともいうべき轟きが、この時間に終始聞えた。猛烈な速度で走る馬車のように思った人も多い。大地から噴出する蒸気によって太陽の光がまさしく暗くなり、硫黄の成分から臭気が発散するように感じられた。大地のあちこちに幅広くはないが、延々たる亀裂が生じる。建物の壊滅によって発生した粉塵が王都の一帯を濃い霧で覆い、あらゆる生きものを窒息させた。

 (訳註*)気圧計27インチ7ライン、レオミュール温度計14グラオは気圧計約238ヘクトパスカル、温度計摂氏175度に相当する。

     永冶日出雄
http://www.hnagaya.net/top.html

地震の発生と住民の動転 リスボン市中その1
Hans Reichardt, Prirodni katastrofy, Prague, 1994..(KOZAK)

アルブレヒト・デューラー画、万聖節(ウイーン国立歴史美術館所蔵)
万聖節には多くの教会でこの絵画が掲げられる。
  Albrecht Durer, ,Toussaint
       モレイラ・デ・メンドンサ著
      『世界地震通史』

        1755年11月1日
 
 【第472項】
 この年11月に人類が体験した地震は、規模の大きさによって後世のあらゆる世紀に想起されるであろう。なぜなら、その影響は遺憾にもきわめて多くの地域に及び、アジアのみが免れたからである。 甚大な被害を蒙った地域の第一はポルトガル王国、とくに国王陛下の王宮を擁し、殷富で人口稠密な都市リスボンである。 最初にこの都会における大地震の結果を報告し、さらには王国の各地や連関する諸地域についてその影響を叙述したい。

 リスボン大地震による震動・津波・セイシュの波及
  Berghaus'physicalisher Atras, Gotha, 1849

1/通覧 I

家族を救出して、避難するある貴族

  アルフレド・ガメイロ画、インドへ出航するヴァスコ・ダ・ガマ
 Partida de Vasco da Gama para a India por A. R. Gameiro (1864-1935)
 


 
 

地震・津波・火災に襲われた王宮広場一帯と船上で苦闘する被災者たち
Lisbonne abysmee (パリ国立図書館 )

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初出 2013/06/28
改編 2014/03/15

 本稿における絵図の説明で(KOZAK)と付記するのは、チェコの
地球科学者ヤン・T・コザックによって収集された独自の史料である。
リスボンの絵図98点を含む膨大な地震画像集成、いわゆるコザック・
コレクションはカルフォルニア大学の協力のもとにオンライン提供されている。
 The Jan T. Kozak Collection, Images of Historical Earthquakes.
 The Earthquake Engineering Online Archive,  
 NISEE e-Library, University of California, Berkeley.

【第483項】
 度重なる危険に動顛した人々は、狂気のように絶え間なく叫びながら、田野を動きまわった。 画像を手にして、祈祷を唱えると、多くの者が見倣って震える声を張り上げる。他の者は黙り込み、放心したように歩いた。
【第484項】
 修行の場である僧院の廃墟を修道女たちは無念にも離れ、頼れる縁者や避難できる田野をそれぞれに捜した。敬虔な人妻が身内と引き裂かれ、泣きながらひとり田野をさまよう光景は、世にも哀切な絵図である。若干の人々は破壊を免れた修道院の鐘楼に避難し、神の慈悲を待ち望んだ。
地震の発生と住民の動転 リスボン市中その2
Susanna Van Ros, Earthquake, London, 1983 (KOZAK)
3/通覧 I

2/通覧 I

18世紀中葉 大地震以前の王都リスボンと王宮河港(リスボン市史料館所蔵)
Afbeeliding der Stad Lissabon, Peter Schenk.


【第476項】
 おりしも万聖節の祭日として盛儀が予定され、その時刻にはあまたの人々が教会へ参集し、聖職者の説教に恭しく聴き入るか、当日の式典を待ち受けていた。同じ目的で寺院を目指したり、用務を果たすため、道を急ぐ人々もかなり見られた。王都の住民の大半は自宅にいて、人によってはまだ床を離れない。地震と察するや、すべてが脅威、混乱、無秩序となった。
【第477項 】 
 ある人たちは屋内で茫然として地を踏むことも、戸を叩くこともできず、他の人たちは街路に跳び出して、障壁の瓦解によって死んだ。街路から教会へ避難する者もあり、降りかかる危険を避けるため教会から逃れる者もいた。住居の倒壊によって多数が石材の下敷となって絶命したり、瓦礫のもとで救助を求め、泣き叫んだ。
【第478項】
 破壊された多くの寺院、階梯、穹窿、障壁が群衆の頭上に落下し、逃げ惑う彼らは神の慈悲を求めた。そうした叫びは聖母マリアの加護を願ってもなされる。 同じ叫喚は王都のあらゆる街路や地点、近郊のさまざまな地区で聞かれた。地震の脅威、建物倒壊の轟音、死への恐怖、男衆の喚き、女子供の泣き声が異常な喧噪と錯乱を惹き起し、全般的な恐慌によって危機に対処できぬ状況となった。

リスボン港 小舟による避難と津波の襲来(リスボン市史料館所蔵)
Refugiados fugindo de Lisboa de barco, Hollan, sec XVIII ?.

5/通覧 I