リスボン東側の丘陵アルファマ地区では頂上にサン・ジョルジェ城が築かれ、山裾の河岸近くに大聖堂が屹立しています。他方地区の東側で際立つのは、サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会の突塔一対です。この教会にはここには歴代国王の柩も安置され、ポルトガルでもとりわけ重要な寺院のひとつでした。

 

 

初出 2013/05/28

  リスボン大地震を辿る−ポルトガルふみ 1755-2012年−

  HIDEO NAGAYA
 
 
永冶日出雄

 十五世紀ポルトガルの傑出した絵師ヌノ・ゴンサルヴェスは独自の画風のため、弟子もないままこの世を去りました。伝説の名作 『大聖堂』 はリスボン大地震によって消失し、板絵 『聖者ヴィセンテ』 6枚が1882年にサン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院で発見されました。この作品は1931年パリで公開され、ゴンサルヴェスの真価がようやく国際的に認められたのです。

 1755年万聖節この教会における地震の衝撃について古文書にはつぎのように誌されています。「いよいよ聖歌隊席で〈主よ、この祭日を我らすべてが慶び・・〉と入祭文を歌い始めた瞬間、嵐に翻弄される小舟のように、聖堂全体が揺れ動いた。ふたつの鐘楼の大きな青銅の鐘が激しく鳴り響き、縺れた組鐘は聾するばかりの叫喚のなかに墜落した。燭台は倒れて消え、ステンド・グラスは微塵に砕け、聖者像は台座から転落し、聖職者も信者も錯乱に陥る。木材の落下で十数人が死亡し、円柱、柱頭、拱門などの大理石、さらには巨大な石塊が崩落した。」

この日は十時から礼拝堂でのミサが始まりました。オルガンの演奏と讃美歌の合唱が厳粛に響き、祭壇で白衣の聖職者で祈祷と説教を進め、そのあと幾人かの信者が順次壇上に登って、祈りと誓いを捧げました。前方の座席には百名ほどの信者が列席し、仕切りを隔てて後方では旅行者など三十名ほどが見詰めています。シュラディの考証によれば、貴顕の階層は前列の特別席を占め、普通の商人や職人は後方の座席で拝し、乞食や流れ者が裏手に屯したのです。

逍遙その2 サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会

板絵 『聖者ヴィセンテ』ヌノ・ゴンサルヴェス (現在はリスボン古美術館に収蔵)

 かって祭日のミサに王侯貴族は幌馬車や駕籠で参じたとされます。震災記念日の朝私がここを訪れたのは、地震発生の状況が詳しく伝えられているからです。

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リスボンとサン・ヴィセンテ・デ・フォラ教会 1572年

-万聖節のミサに参じる-

link サン・ジョルジェ城

 礼拝堂に隣接する修道院は比較的被災が軽微であったとされ、入口の庭園には噴水つきの小池があって、ブーゲンビリアなど数種の樹木が花盛りでした。庭園の片隅から教会の正面を仰ぐと、赤紫の花房が咲き乱れる彼方に鐘楼が聳え、あの鐘が叫喚する会衆の上に墜落したのかと思いました。

 修道院には多くの彩色タイルが展示されており、もっとも有名な作品は1147年のリスボン攻囲を描いた大作です。この敷地にはすでに古い教会があったようですが、壮麗な寺院は16世紀に造営されました。

 礼拝堂全体が震災後の再建ですが、王キでもっとも壮麗な教会と評された様式が可能なかぎり復元されたと思われます。壁面と支柱が白亜の大理石で築かれ、堂内は際立って晴朗でゆったりしています。工芸の粋を集めた壁画や聖像も総じて優美な印象を与えます。

 大地震の朝 にはどの教会も信者で満ち溢れたとされますが 、ポルトガルでもいまやそうした信仰は遠い昔の物語でしょうか。ミサに参加できたのはまことに幸運であるものの、堂内での設営や儀式に祭日らしい特別の配慮はなく、古い面影を留めるアルファマ地区の街路にも万聖節を感じさせる光景はなにも見当たりません。